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2023/06/24

ラブアース報告

ラブアース報告
野多目校区では6月のラブアース月間に合わせて各町内会で清掃活動が実施されました。今回一部ですがその時の様子をお伝えいたします。
【1】レークヒルズ野多目町内会
レークヒルズではバス通りを中心に清掃活動を実施しました。
植込みのゴミを集めました



参加賞をいただきました

雑草などを抜きました

6番館前の様子です

【2】向新町2丁目1区町内会
都市高速野多目ランプ下り口の清掃をしました。




【3】野多目2丁目町内会
野多目2丁目には沢山の公園がありますので、公園の清掃をしました。
郵便局近くの公園です。

草刈りをしました



公民館横の公園です。

【4】和田2丁目町内会
がんセンター裏、野多目北公園を中心に清掃しました。



野多目北公園入口の様子です


皆様、大変お疲れ様でした!

レークヒルズ野多目町内会
向新町2丁目1区町内会
野多目2丁目町内会
和田2丁目町内会

2018/06/09

野多目歴史散歩⑨
野多目は古くからの土地 -大正の野多目ー
この「野多目歴史散歩」では、私たちがま知らない郷土の過去を校区の皆様にご紹介し、私たちの「野多目」に対する理解を深めたいと考えています。調査・検討をしながらの掲載となりますので、ブログへの掲載は不定期となりますが、継続して皆様へお届けしたいと考えています。時代がいよいよ近代に入ってきます。江戸時代→明治→大正です。

【11】小学校の4本の石柱について
野多目小学校の公民館側、プレハブ校舎の横に4本の石柱があります。この4本の石柱は、大正15年(1926年)3月に建造され、以後約70年間人や車の通行を見守ってきた「野多目橋」の橋柱です。当時の野多目地区は田畑が広がるのどかな田園地帯でした。牛馬車が往来し人々は稲作に従事していました。そのような田畑を潤していたのが老司川で野多目橋はその老司川にかけられた幅6m、長さ8mの小さな橋でした。現在の国道385号線 がんセンター入り口交差点が野多目橋があった場所です。
昭和40年代になると野多目地区は急速に都市化が進み、昭和56年(1981年)野多目小学校が開校、以来、野多目橋は十数年にわたって子どもたちの登下校を見守り、町の人たちの暮らしを見つめてきました。野多目で唯一、近世野多目の歴史を知る橋でした。
その後、人や車の往来が増え、既存の道路では対応できなくなったために、平成5年(1993年)国道385号線の路面が拡張されることになり野多目橋は改造されることになりました。
取り壊し際して、野多目小学校保護者や地域の方々より「地域の歴史を伝えたい、是非野多目橋の橋柱だけでも保存してほしい!」との要望を受け、平成5年(1993年)7月に野多目小学校校庭の一角に移設されました。




野多目校区自治協議会
野多目1丁目1区町内会
向新町2丁目1区町内会

2018/03/22


野多目歴史散歩⑤
野多目は古くからの土地 -平安時代の野多目ー
この「野多目歴史散歩」では、私たちがまだ知らない郷土の過去を校区の皆様にご紹介し、私たちの「野多目」に対する理解を深めたいと考えています。調査・検討をしながらの掲載となりますので、ブログへの掲載は不定期となりますが、継続して皆様へお届けしたいと考えています。
ここまで、古代の野多目をご紹介してきましたが、時代がぐっと進みます。縄文→弥生→古墳→飛鳥→奈良→平安。
【6】神崎街道
那珂川に沿った古代の道は、平安時代(12世紀のい中ごろ)には肥前の国(現在の佐賀県と,壱岐国,対馬国を除く長崎県の旧国名)の神崎まで老司川に沿って街道町が形成されていました。
神崎の荘司(しょう じ: 荘園のことで,領主の命を受けて年貢の徴収・上納,治安維持などの任務にあたった者)だった平忠盛(たいらのただもり:平清盛の父)は日宋貿易で莫大な利益を得ようと那珂川の河口に荘園「袖の湊」を設けて貿易を行い輸入品を博多からこの神崎街道を経由して佐賀の神崎まで運んだそうです。昭和初期までは街道筋に登記所、郵便局、筑紫銀行、武石銀行などがあり博多→野多目→老司のメインストリートでした。






















神崎街道の看板は、野多目から老司交差点を左折。すぐに右に入る小道があります。くねくねと曲がった小道には、昔の面影が残っています。

野多目校区自治協議会
向新町2丁目3区町内会
向新町2丁目1区町内会
野多目1丁目1区町内会
和田1丁目町内会