2018/03/22


野多目歴史散歩⑤
野多目は古くからの土地 -平安時代の野多目ー
この「野多目歴史散歩」では、私たちがまだ知らない郷土の過去を校区の皆様にご紹介し、私たちの「野多目」に対する理解を深めたいと考えています。調査・検討をしながらの掲載となりますので、ブログへの掲載は不定期となりますが、継続して皆様へお届けしたいと考えています。
ここまで、古代の野多目をご紹介してきましたが、時代がぐっと進みます。縄文→弥生→古墳→飛鳥→奈良→平安。
【6】神崎街道
那珂川に沿った古代の道は、平安時代(12世紀のい中ごろ)には肥前の国(現在の佐賀県と,壱岐国,対馬国を除く長崎県の旧国名)の神崎まで老司川に沿って街道町が形成されていました。
神崎の荘司(しょう じ: 荘園のことで,領主の命を受けて年貢の徴収・上納,治安維持などの任務にあたった者)だった平忠盛(たいらのただもり:平清盛の父)は日宋貿易で莫大な利益を得ようと那珂川の河口に荘園「袖の湊」を設けて貿易を行い輸入品を博多からこの神崎街道を経由して佐賀の神崎まで運んだそうです。昭和初期までは街道筋に登記所、郵便局、筑紫銀行、武石銀行などがあり博多→野多目→老司のメインストリートでした。






















神崎街道の看板は、野多目から老司交差点を左折。すぐに右に入る小道があります。くねくねと曲がった小道には、昔の面影が残っています。

野多目校区自治協議会
向新町2丁目3区町内会
向新町2丁目1区町内会
野多目1丁目1区町内会
和田1丁目町内会

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