野多目は古くからの土地 -江戸時代の野多目ー
校区の皆様にご紹介し、私たちの「野多目」に対する理解を深めたいと考えています。調査・検討をしながらの掲載となりますので、ブログへの掲載は不定期となりますが、継続して皆様へお届けしたいと考えています。
ここまでの、平安時代の野多目から更に時代がぐっと進みます。平安→鎌倉→室町→安土桃山→江戸。今からおおよそ370年前の野多目はどんな様子だったのでしょうか?
青柳 種信(あおやぎ たねのぶ:江戸時代後期の国学者 福岡藩士)作成の福岡藩公式の郷土史「筑前国続風土記拾遺(ちくぜんのくにしょくふどきしゅうい)」 によれば、江戸時代に入ってすぐの正保元年(1644年)に現在の場所に移すとあり、その際に同時に照天神社も現在の位置に移されたとあります。村が移った場所は、照天神社の下側から旧公民館、野多目小学校一帯(現在の野多目2丁目、野多目4丁目)と言われています。
元の村は現在の場所から寅の方向(東北東)へ三町(約327m)余りの所に位置していたと記されていますので、現在のがんセンター東付近(和田2付近)で「古村(ふるむら)」と言われていたそうです。野多目村の中世までのルーツはこの「古村(ふるむら)」に有ったわけです。
造成中のがんセンター新駐車場(新病院より東側を望む) |
野多目校区自治協議会
野多目2丁目町内会
野多目4丁目町内会
和田2丁目町内会
0 件のコメント:
コメントを投稿
★コメント機能を「試験運用」します。
ブログ記事を閲覧されてコメントございましたら投稿願います。
注1)コメントに書かれた内容につきましては、ご意見として承ります。個々のご要望には
お答えできませんので、ご了承ください。
注2)公開に際してふさわしくないと判断されるコメントに対しては、削除されることも
ありますのでご了承ください。