野多目は古くからの土地 -現代の野多目ー
【12】大橋という地名の由来について
これまで野多目とその周辺について過去からの流れを追ってきました。最終回は現代でこの地域の中心として注目されている「大橋」についてふれてみたいと思います。
大橋周辺は昭和47年(1972年)から始まった塩原地区土地区画整理事業による15年をかけた大改造で田畑の多かったまわりの状況が一変しました。並行して昭和53年(1978年)西鉄大牟田線 高架橋の完成により、福岡市南区の副都心として都市機能の集積が著しく進み、区役所・保健所などの各種行政施設も集まり、文教・商業・交通の中心として発展してきています。
老司 警弥郷橋の少し上流から取水している老司井堰から老司川(用水路)となって大橋・塩原地区を通り那珂川へ注いでいますが、今の高宮通りを横切る橋が「三宅大橋」と言い現在は無く(石の橋梁の片りんだけが残っています)、この先からは地下を流れています。その先、50m程駅寄りの高宮~井尻方面に行く旧道に「大庭大橋」と呼ばれた大きな石橋が掛けられていました。この「大庭大橋」が「大橋」の地名となったようです。
この「大庭大橋」は現在の大橋1丁目、マックスバリュのちょうど裏側に位置していたようです。この橋は塩原地区土地区画整理事業で解体され、残念ながら年代など詳細は不明です。周辺一帯も全て変わりました。大橋1丁目~4丁目という町名は昭和55年(1980年)に登場します。
【13】西鉄旧大橋駅は現在より300m程井尻側にあった!
駅名は大正13年(1924年)に西鉄大牟田線 天神~久留米間が開通した時、この辺一帯が明治・大正時代から通称「大橋」と言われていたので大橋駅とつけられたものと思われます。最初、線路は現在よりも竹下方向寄りの塩原の地禄神社付近を通る計画でしたが、その当時地元の反対があり変更になったようです。(踏切ができると坂道になり、馬車・リヤカーなどを引くときに大変になるからだったと言われています。)
最初の駅は現在よりも300m程井尻側にありました。昭和53年(1978年)に大牟田線の高架工事完成と、塩原地区土地区画整理事業の進展に伴い移転したのです。
野多目歴史散歩(全10回)は今回で終了いたします。原稿など資料収集にご協力いただきました、野多目4丁目 石川前公民館館長様に感謝いたします。
野多目校区自治協議会
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