2018/04/12

野多目歴史散歩⑦
野多目は古くからの土地 -江戸時代の野多目ー

この「野多目歴史散歩」では、私たちがまだ知らない
郷土の過去を校区の皆様にご紹介し、私たちの「野多目」に対する理解を深めたいと考えています。調査・検討をしながらの掲載となりますので、ブログへの掲載は不定期となりますが、継続して皆様へお届けしたいと考えています。
時代が江戸時代まで下ってきましたが、ここで同時代の野多目周辺の様子を見てみましょう!
【8】200年前の野多目周辺は?
皆さんご存知の伊能忠敬が50歳を過ぎてから作成した伊能図によれば、野多目周辺には片縄村、老司村、三宅村、塩原村、高宮村、平尾村など現在の地名そのままの村が古くからあったそうです。(大橋は近年になってから作られた町です。)

◆塩原村 塩煮塚 飛び火 大続松(おおたいまつ)
 当時は海岸線が現在より陸地側に入っていたと考えられ、那珂川沿いの河口近くにあった塩原はずっと海に近かったようです。伊能図にも塩原の近くに「塩煮塚」と呼ばれる製塩所があったようです。
貝原 益軒(かいばら えきけん:儒学者 福岡藩士)の風土記によれば、塩原一帯は暗い夜には時々大きなたいまつほどの飛び火が見られ、人が近づくと青白くなったり、消えたりし、ゆっくり遅く飛んだかと思えば、矢のように早く飛んだりしたそうです。

◆清水村 大木
 伊能図には大木と書かれている部分が有りますが、これは現在の大楠と思われます。楠の大木があった事からこの町名になったそうです。当時も、遠方からでも見えるような大きな楠木があったものと思われます。

このように200年~300年前の江戸時代では、福岡城の城下をちょっと出ると、どこでも田んぼや丘陵・沼地などが広がっており、夜には寂しく鬼火が飛び回りひと玉が出たようで、塩原に限らず野多目や周辺村々でも同じような感じだったものと思われます。
(出典:野多目4丁目 石川さんの歴史シリーズより)

【9】あの伊能忠敬隊も野多目を通った!
伊能忠敬は今からおおよそ200年前の江戸時代に17年かけて日本全国 北海道から鹿児島(屋久島)までを歩いて測量し、日本で初めての実測による正確な日本地図を作った人です。九州にも2回測量に訪れ、九州最後の測量を終え江戸にもどるときに、伊能忠敬の本隊は三ツ瀬峠越で博多へ、別部隊が佐賀の神崎郡から坂本峠を越えて那珂川町→野多目→博多を通りました。忠敬測量日記によりますと、文化10年(1813年)10月1日朝6時過ぎに那珂川町の片縄を出発、測量をしながら野多目を通ったそうです。当日は朝のうちは晴れ、のちに曇り少し雨になったようです。宿泊地 博多呉服町で本体と合流、夕方6時に天気の良い福岡城の方向に行き、夜10時まで天体観測を行ったとあります。

野多目校区自治協議会

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